まぁ、某国とはイスラエルなのですが。
託児所でとある実験というか試みをしたという記事があったので、興味深く読ませて頂きました。
ただこれは別にイスラエルでなくても日本で同様の実験をしたら、程度の差はあれ同じような結果になると思います。
さて、託児所は親御さんを始め保護者の都合でどうしても定時より遅刻してしまうことがあると思います。
そこで、イスラエルの某託児所は遅刻してきた人から、罰金を取ることにしました。
すると…遅刻する人は減ったでしょうか?増えたでしょうか?
答えは『増えた』です。
今までは
(託児所に迷惑かけちゃいけない。急いで息子と娘を迎えに行かなきゃ!)
と『社会規範』で遅刻しなかった人も…
(お金(罰金)を払えば遅刻してもOKでしょ?だってお金払ってるんだし。ちょっと寄り道してから託児所に行こうっと♪)
という『市場規範』に切り替わっているからなんですよね。
むしろ罰金という定額のお金を払うことで、遅刻そのものもそうですが遅刻時間も増えそうな気がします。
(どうせお金払うんだし、1時間くらい遅刻してもいいでしょ♪)
みたいな。
結局罰金を取るシステムを止めて元に戻しても、遅刻は減らなかったようです。
一度決めた方向性は根強く人の心に残るんでしょうね。
というか、それだけお金の魔力(の余波)は強固で恐るべしということなのかもしれない(;^ω^)
ここまでお読み頂いた方の中には、察しが付いた方もいらっしゃると思います。
『社会規範』とは、道徳の世界。
道徳的に、人としてどうあるべきか、どう行動すべきかです。
我々日本人は家族や親戚、友人、学校の授業、他様々なシーンで道徳を学ぶ機会が特に多いのでこれは心の深層にも刻まれているものだと思います。
『市場規範』とは、お金の世界。
その名の通り市場の決まりごと、経済なんちゃら~にがんじがらめにされているところ。
損か得か、シビアに判断するのが特徴。
私も少し日本の駅で謎の妄想をしてみたのですが…
例えば雑踏の中、人混みの激しい駅の構内。
電車待ちをしていると、たまたま自分の目の前に空きペットボトルがコロコロ転がってくる。
ゴミがいつまでも転がっているのも見苦しいしなぁ…と思い、そのペットボトルをヒョイと拾いゴミ箱へ。
それを見た、とある外国人。
外国人「オーッ、素晴らしい。自分が飲んだものでもないのにゴミ箱を探して捨てるなんてワンダホー」
ビューティホープレイス♪とテンションがやたらと高い…
(えっ!?)
ただただ呆ける日本人。
外国人「サスガ、日本人。清く正しく美しい…ん?ナニカチガウ?とにかくエラーイ」
日本人「あ、いや。別にそんな…(何だこの外国人、大げさだなぁ…)」
外国人「駅弁を買い過ぎたので、1つ差し上げマース。感動をアリガトウ!!」
日本人「いやいや、いりませんよ」
外国人「奥ゆかしさもあるだなんて、やはり日本人スバラシイ(駅弁を無理矢理渡す」
そんな空想というか妄想をしてしまいました。
日本人の方は『社会規範』つまり道徳心からの行動をしていたのに、何だか過剰な感動をされて、モノを貰って居心地が悪くなっています。
これは見返りを求めている『市場規範』じゃないのに…という気持ち悪さを人によっては感じるのではないでしょうか?
しかしながら『社会規範』→『市場規範』に変わるのは何となくギクシャクというか気持ち悪さを感じるのに、『市場規範』→『社会規範』に変わるのは(片足を突っ込むのは)それほど違和感ないような気がします。
これもどこかの記事で見たのですが、例えば○○大震災の時。
大企業(市場規範に染まっている団体)が被災地に無料で食料や飲料を寄付する(社会規範)というのはすんなり受け入れられる行動。
むしろ、大企業が率先してこのような社会奉仕をすることによって、企業の知名度とイメージアップに繋がり企業側にも大きなメリットがあります。
『社会規範』と『市場規範』、お互い遠いようでいて切り離せない概念。
身近なところから色々と考えてみると、案外奥深く感じるし面白い。
皆様の身近なところでは、何が思い浮かぶでしょうか?
コメント